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ペット猫のバイヨン寺院 バイヨン寺院のレリーフ
たくきんの仲間を語る。
明治、大正から昭和の初期までは、盆栽には佗ぴ寂びの哲学があり、それは学識豊かな愛好家の提唱するものであり、業者もその線に沿って勉強したものであり、今日の技術、培養の一辺倒とはいささか異なった奥行きをもっていたのである。
そのような趣好に合致するのが、寒樹の相なのであり、それほ画の手本として珍重された「芥子園画伝」に示される雑木の寒樹の桐を現実に示ずものであり、
佗びの面から見れば、小実で小花の四季咲きの朝鮮姫の風情である、霜も近いかと思われる晩秋の頃に見る実の風情、花や蕾とともにまばら見られるのである。
まさに盆栽の醍醐味が判然としてしめされるのである。
ザクロは珍らしく、一種、一属、一科と言われ、その名はラテン語からきており、中東地方にほ有史以前からあった。
我が国には中国朝鮮を経て、遣唐使時代に伝えられたものと言われ、当初は薬用として用いられたものらしい。
「万緑叢中紅一点」の名句は中国の詩人がこの花に対して述べた詩の一節と言われる。
花は千咲く,成る実は一つとも言われるように、盆栽でも花はほとんどの枝先に咲くかとも思われ、成り花であっても歩止まりは悪く、花も終わり近くあきらめかけた頃にかろうじて幾つかが止まるのが普趣だが、盆栽は数ではなく味わいなのであり.一鉢に多くはいらず、3~5個で充分と言った所である。
実を付けるためには、肥料に気を配ったり、幾分根詰り気味の方法も大切である。
当時中心となったのは大実であり.庭木などから取り木して作り込まれたと恩われる。
時代物の風情ある名樹も数多く出廻り、一段とにぎやかなものであった。
庭木と言えば麹町のさる豪邸の玄関先の馬車廻しの中へ植えられた.ザクロの樹容と美 事にハサミの入れられた枝先の美しさはザクロの事を思うたび、現在でも頭に浮かんで来る。
樹肌については、時代面から幾分不満の点も見られたが、荒皮性やイポ幹なども現われて来た。
何といっても一世を画したのは、捩幹の出現であり、それは大実からの変種と言われ 大実の性格をそっくり受け継ぎ樹勢は強く、幹や枝が顕著に左に捩れ、若くして時代を現わし、それが風格を示し雅趣を深め、寒樹の相は深く寂びを示すことである。
捩幹は多肥を好むものであり、仕上がりも早いために一躍盆栽界の寵児となり、有力者からも謬められ、入札価格の記録を次々と更新して行ったのである。
産地の名古屋地方では畑作りの促成物も作られ、次第に一般にも行き渡るようになった。
大正年間には今日のようなカラー写真はなく,その華麗さを伝えるための、人気樹種の彩色の画集も発行され、二十余種の花容、性状などが解説されていた。
金盛時代は五十余の種類もあり、盆栽を語る者はまず、ザクロからと言った惑じであるが、その中から2、3拾って見ると、最高は五彩石榴であり、これは錦抱から変化したもので、花は朱の八重、白八重、更紗、紅白咲分や白ガクに紅筋入りなど多彩であり、それぞれの芽も咲く花に応じて、青茅、赤芽筋入り、半染め、絞りなどの変化も見られ、花に対する願いのすぺてが凝縮されたようなものであった。
後絞りという種も有名で、葉は柳葉で枝は良く密生し、花着きも良く、花は本紅の万重咲きで大々輪で散り際になり、白絞りが現れる。
紫紺石榴は芽立ちが薄紫、後に青葉、花は紅色の一重、小実で青紫、技は紫色。
水晶大実は茅出しが黄色、後に青葉、花は純白一重大輪、実も大きく、資白色。
その他の数々は記録に残されたので五十種以上にものぼるほどであった。
キリスト教の初期の時代には、雄牛の角、ひづめや尾は悪魔の象徴とされていた(まもなく中世に雄牛のひづめが馬のひづめに変わった)。
このことは、異教徒の神聖視するものを"悪魔の使者"にすりかえて、悪魔に「古い神がみ」のしるしをつけさせるという、当時のキリスト教の傾向を示すものであった。
けれども、とりわけ文明を進歩させる手助けをした動物にとって、このような仕打ちは不公平なことであった。
オーロックス[欧州産の原牛、一七世紀に絶滅]は、聖書に神話の動物として現れる。
ジェームズ王[英王。
一五六六1=ハニ五年]時代の聖書は、それを一角獣と同一視している。
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